オットー常寛の大学の半分を敵に回す

オギャりたい大学生

昨今一般常識から著しく逸脱した大学生が増えています。両親から毎月十数万円のお金を受けとったり、食堂で髪を染めたり、構内で流血沙汰を起こしたり、例を挙げればキリがありません。

私の周りにもそういう人間は居ました。その人はあるサークルの会長をやっていたが、はっきり言ってそのような役職をやれるような器ではありませんでした。自分が誤った指示を出したにも関わらずしらばっくれたり、過失を責められると、「それはもう終わった話だ」と激昂し、一方的に会話を終わらせるなど、こちらが目を覆いたくなるようなひどい人格の持ち主でした。

険悪な雰囲気に耐えきれず辞めていった子を、「部外者だ」と激しく罵っている彼を見て、私は愛想が尽きてしまい、夏休みに入る少し前の6月に、私はそのサークルに行くのをやめました。彼からはしつこくメッセージが送られてきましたが、私はその全てを無視しました。彼から私に送られてきた最後のメッセージは、「死ね」の2文字でした。

何故彼らのような義務教育を受けてきたとは到底思えないような大学生が増えているのでしょうか? その背後には恐らく「父性の喪失」というものが潜んでいるのでしょう。

 

いなくなったお父さん

日本SF界の大御所小松左京は、「日本沈没」で「琵琶湖の小鮎論」というものを展開しました。この論の内容は、「核家族化や社会保障の充実等によって、日本社会が『過保護状態』となり、さながら琵琶湖の小鮎のように日本男児は幼児化していく」という内容です。

彼の論が正しいかどうかは置いておいて、彼以外にも「日本人の幼児化」および「父性の喪失」を唱える人は数多くいました。河合隼雄江藤淳、最近の人で言うと田中慎弥もここに名を連ねるでしょう。

なぜ「父性の喪失」が引き起こされたのか、という事についてはここでは語ることができません。それを語るにはどうあがいてもページ数が足りないのです。その為ここでは割愛しますが、「父性の喪失」はたしかに引き起こされました。

「父性の喪失」が事実である証拠は、今の世の中を見ればすぐに分かります。「父親」や「大人の男」と言った言葉が時代遅れのマヌケな響きしか持てず、「亭主関白」なんてものを口にしようものなら、すぐさま「マチズモだ」と馬鹿にされてしまう。現代社会において、「父」というものは最早語られることすら憚られる程、失墜しています。

もう日本にいる父親は、前時代的なおままごとを家族に強要する人間か、「いいパパ」を演じている人間しかいません。それに追い打ちをかけるような不況が、彼らの滑稽さを際立たせます。

 

お母さんと(ずっと)いっしょ

 精神分析学者であるフロイトは、「幼児期の男児は母親を求め、それを邪魔しようとする父親を憎悪するが、その憎しみと同じくらい父親の強大さに恐れをなす」、という概念を提唱しました。この考えはフロイトの幼児期の体験を反映しているところや「男児は近親相姦的欲求を持つ」といった内容であったため、数多くの非難を受けましたが、男児が母親を求め、父親を疎むという考えは否定できないでしょう。 

 子供と母親の間には、「へその緒」という肉体的なつながりが存在します。しかしその「へその緒」は医療的な問題から切除されてしまいます。つまり子供からしてみれば、相手は自分の体の“元”一部であると言えるでしょう。だからこそ子供は母の腕の中に安寧を見出し、母の傍へ行くのです。子供からしてみれば母親というものは、自分の延長として「もう一人の自分」であり、自分を守り育ててくれる「同胞」であるのです。

 しかし父親はそれとはまったく逆の存在です。父親は、子供の世界になんの脈絡もなく、いきなり現れます。母親のような身体的なつながりが一切存在しない、父親という得体の知れない存在は、子供と母親の世界に侵入し、子供を外の世界に放逐しようとします。子供にとってみれば、父親はまったくつながりのない「他者」であり、自分の世界に侵略してくる「外敵」でしかありません。

 日本分析心理学の父である河合隼雄が論じていたように、子供は父親という初めて遭遇する「他者」と関わっていく(対話していく)ことで、社会の規範や忍耐、「他者」を理解するコミュニケーション能力(社会性)を養い、外の世界に向かう準備を始めます。

 しかし肝心の父親はいなくなりました。父親という侵略者の恐怖から解放された子供は、母親のそばから離れなくなりました。父親という「他者」がいない、「身内」だけの保護過剰の世界で、子供は母親から無条件に与えられる愛情を一身に受け、その自我を肥大化させていきます。そして彼らが物心つく時、「他者」が入る余地が一切無いくらい、彼らの世界は狭苦しいものとなっています。

 

子宮再現願望が生み出すディストピア

 では父性が欠落した家庭で育てられた子供の世界とは、具体的にどのようなモノでしょうか? それは彼らが消費している(求めている)アニメや漫画、ライトノベルを見ればわかります。

 例外が存在しますが、そこにはおおむね二通りの世界が存在します。

 1つめが、「日常系」や「アイドルもの」のような、異なる存在(他者)がほとんど排除され、同性(身内)ばかりいるホモソーシャルな世界。

もう1つが、「転生もの」のような、上位者(母性的存在)から特権的な能力をもらった主人公(子的存在)が好き放題できる、自分以上の存在(父性的存在)が出てこない世界。

 こういうことを言うと、前者に該当されるような作品には登場人物の間ですれ違いや軋轢があるのだから、そこには「他者性」はあるだろうと思うかもしれませんが、それは間違いです。

 登場人物が意見や考えの食い違いから主人公と衝突してしまうけれど、結局主人公サイドの説得に応じてしまうんですよね。主人公との話し合いで、自分の考え(他者性)を捨てて、主人公の軍門(身内)に降ってしまう。彼らの他者性はこのような一時的なものであって、最後まで貫かれることはありません。

 またキャラクターが留学などの理由から別の土地(外の世界)へ離れようとすると、主人公が出てきて、自分たちのいる方(内の世界)に戻るよう説得してしまう。これも先程と同様、留学などを止めて、主人公のいるところへ戻ってしまいます。キャラクターは外の世界に憧れはするものの、主人公のいるコミュニティからは離れません。

 結局蓋を開けてみればそこには、内側(身内)の世界に引きずりこんで全てを完結させようとする、閉鎖的な世界が広がっています。そこでは主人公と同じような意見や考え方しか許されず、他者が他者でいられない世界なんですよね。

 冒険活劇の主人公たちはおおむね真の自由を求めて、世界の支配者の殺害(父親殺し)を目論みますが、「転生もの」ではそのようなことは起こりません。

 まず「転生もの」には神や超越者のような上位者がいますが、彼らは「創造」という“母親”としての機能しか持っていません。主人公はその母性的存在から無条件で能力を与えられ、彼女達が創った世界へ行きます。そこには主人公の存在を脅かす敵が登場せず、主人公は大して苦労することなくその世界を支配します。そして「転生もの」の主人公は、上位者(母性的存在)が創ってくれたその安全な世界から、いつまでたっても抜け出すことはありません。

 「転生もの」に限らず、今時のライトノベルの主人公は、現実世界とは別の世界(ヴァーチャル空間など)を持っていて、彼らはその世界で稀有な才能を発揮させ、冒険します。彼らはその別の世界で様々な活躍をしますが、現実世界では何事も成し遂げません。彼らは自分たちが強者(支配者)でいられる傷つかない世界でしか活動しません。

 極めて口の悪い言い方になりますが、彼らは敵のいない子宮の中でチャンバラごっこやってるだけなんですよね。

 父性が欠落した家庭で育った子たちは、こういう“他者が消去された“都合のいい世界が描かれたものばかり消費しています。それを裏付けるように、同性愛者ではないにも関わらず、彼らが所属しているコミュニティは排他的なホモソーシャルなものばかりですし、彼らはそのコミュニティから離れることを恐れます。※

 また彼らのコミュニケーション能力は、同じ趣味を持つ相手か同じ集団にいる者だけで、何ら接点のない存在に対しては発揮されません。

彼らの裏に潜むこの欲望、つまり他者(外敵)が存在しなかったお母さんのお腹の中のような世界を再現・構築しようとする欲望を、フロイトの弟子であるランクが提唱した「子宮回帰願望」という概念に倣って、便宜上「子宮再現願望」と呼びます。

 

※「俺らのサークルには女がいるから、こいつの言ってること間違ってんじゃん」という意見が出るかもしれません。しかしそこにも、二通りの女しかいない。

 居ても誰からも相手にされないか、逆に集団の中心にいて、他の男達と同じように行動しているかの、どちらかしかいないでしょ。

 前者はまだ受け入れられてないし、後者に至っては“男性として”参加している。女性性という他者性を捨てて、同じ男性として機能している。その証拠に彼女達は同じコミュニティ内で恋愛しなくなっていくでしょう。

 

真木よう子を許さなかった子どもたち

 この「子宮再現願望」の存在を裏付けるような象徴的な事件が去年の夏にありました。

 女優である真木よう子が冬のコミックマーケットに参加しようとして大きな問題となりました。彼女は数多くの非難を受け、謝罪をした後、すぐさまアカウントを消してしまいました。クラウドファンディングを利用するところなど、真木よう子側にも幾分問題はありましたが、それを差し引いても割に合わないほど責め立てられました。

 それに対し、同じ芸能人である叶姉妹は暖かく迎え入れられ、賞賛までされました。何故、真木よう子叶姉妹でここまで差があったのか? 

 これは単純な話で、叶姉妹が「同質」であり、真木よう子が「異質」であったからです。

叶姉妹コミックマーケットに参加する前からマンガ好きを公言したり、自身のブログでコスプレを披露したりして、オタク側もそれを認知しました。だから彼女たちは受け入れられたのです。自分たちと同じ「オタク(身内)」だと思われたからこそ、拒絶されることなく、受け入れられたのです。

 しかし真木よう子はそういきませんでした。彼女は前から漫画好きを公言していましたが、オタク側はそれを知らなかった。つまりオタクたちからしてみれば、「真木よう子」なる人物は“赤の他人”でしかなかったのです。だからこそ彼らは過敏に反応し、彼女を攻撃し始めたのです。自分たちのテリトリーに侵入してきた“外敵“と捉え、自分たちの世界を守るために彼女たちを追い出したのです。

 一連の騒動の重要な点は、真木よう子が、オタクではない、自分たちとは異なる存在と思われたことにあります。

 人間誰しも自分と異なるものと嫌う傾向がありますし、それは仕方のないことです。しかし「子宮再現願望」持ちの子供はそれが病的で、異なるもの(他者)を完全に排除しようとするんですよね。

 

SNS的村社会

彼らはこのように鎖国していた江戸時代のような排他的な世界を構築しています。ぱっと見たところ、内側にいる人たちだけは幸せそうに見えますが、実際はそうではありません。

父親という「他者」と遭遇しなかった彼らは、母親が創り上げた「身内」だけの世界、つまり自分が特別(優位)でいられる世界で幼少期を過ごしたために、自身の優位性を崩す相手を拒みます。だからこそ自分のいるコミュニティに変化をもたらす外の人間を追い出そうとするんですよね。

 

 (未公開部分はここから)

そして彼らは内側(コミュニティ)にいる人間が自身の優位性を崩すことを当然忌み嫌います。内側にいる人間が自分より好かれ始めたり、優秀な結果を出し始めたりすると、彼らはその凶暴な本性を露わにします。

自分が優位性を保てる世界を守ろうとして、相手を数の力や権力など内側の力で追い出す。そのままだと内部が混乱してしまうから、自身の行いを正当化させるために、彼らは単純な二元論を持ち出します。そこで自身を「正義」や「被害者」などのような“強い”立場に置き、相手を「害悪」や「加害者」という“弱い”立場に置きます。

きっと彼らはSNSのような社会で生活したいんですよね。

マイアカウント(自己)があって、フォローしているアカウント(身内)からなるタイムライン(社会・世界)が広がっている。そしてタイムラインに気に入らないアカウントが入ってこないよう“手軽に“ブロック(排除)できたり、元々タイムラインに居たアカウントが気に入らなくなってきたら、タイムラインから消せるよう”楽に“ミュート(排除)できたりする社会で生きていきたいんですよね。

彼らはこういった社会を内部で構築しようとしています。しかしこれはインターネット上だからこそ簡単にできましたが、現実世界でこれを実践しようとなると、必ず欺瞞と暴力を必要とします。

そしてサークルなどのような大学生の集まりを嫌悪する人たちは、こういう所が嫌なんじゃないんですかね。

排他的な人間が、気の合う人間たちだけと繋がって集団を作り、嫌いな相手を受け入れることなく弾いていく。さらに内側では上の代から好かれるような中心人物が、自分の好きな人間を選んで可愛がったり、自分の言うことを聞かなそうな相手を追い出したり、好き放題やっていて、周りの人間は目をつけられないよう媚を売っている。

また同年代を強く意識して、常に自分が一番でいられるよう権利争い(マウンティング)をしたり、派閥(縄張り)意識を出して下級生を取り合ったり、みっともない政治ごっこを繰り広げている。

このような閉鎖的な村社会を築き上げておきながら、「俺らはあいつらと違うから」といったような安っぽい定型文を口にする。

いっそ開き直って、自分たちの狭量な部分や性格の悪い所をあからさまに打ち出しているならまだ好感も持てますが、彼らは自分たちのそういう悪癖に対して無自覚であったり、上手く隠せていると思っています。

 

裸にされた男たち

こういう「父性」にまつわる問題について語ると、原因を「母性の暴走」に求めがちであるが、それは安易な考え方だと思います。

 「惡の華」を描いた押見修造が今やっている「血の轍」のような狂気ではなく、「源氏物語」に出てくる「光源氏」のような狂気が問題なんですよ。

 実は「母性」自体も衰弱しかかっているか、もうすでに衰弱しきっているかの、どちらかなんですよね。女性の社会進出やシングルマザーの増加がそれを裏付けています。何故それが目立たないかというと、「母性」というものが“消滅”したり、“喪失”したりするようなものではないからです。

 女性が母性に目覚める、つまり母親になるためには、出産を含んだ妊娠という出来事を経験しなければなりません。

 妊娠という経験は極めてグロテスクな経験です。ある日、自分ではない存在がお腹の中にいきなり現れ、自分の体から勝手に栄養を吸収していき、ある時期になると、「お腹の中から出せ」と暴れまわり、陣痛という激しい痛みを与えてくる。例えとしてかなり悪いものだと思いますが、「エイリアン」のチェストバスターを食らうようなものですよ。

 この不気味な肉体変化が起こることによって、女性の精神構造は大きく変化していきます。自分ではない命を身籠ることで、自身がもう自由な存在(子的存在)でないことを理解するしかないのです。その身籠った命(他者)のために、生活していかなければならないことを悟るのです。段々と膨れていく腹を見てしまえば、否が応でも「母」として目覚めなければなりません。だから「この世界の片隅に」の主人公である北條すずは、妊娠こそしなかったものの、性的な体験を通じて妖怪や空想の世界を見る力を失い、“母”になるのです。

 どんなじゃじゃ馬だろうが、アバズレだろうが、腹が膨れてしまえば、母になってしまう。だからこそ彼女達は、我々男たちが目を見張るほど、「母親」というものをものの見事に演じきってしまうのです。

 このように「母性」とは先天的なものであるため、跡形もなく消滅することはありません。「母性」を消滅させるためには、それこそ世にいる女性全てを消さなければなりませんが、それはほとんど実現不可能です。

 では何故「母性の衰弱」が起こったのかというと、社会や科学が発展していって、男性の手を借りずとも女性だけで生きていけるようになったからです。「女は嫁に行くのが一番」という習わしが古ぼけたものとなり、家庭に入らずとも自力で幸せになれる社会が来た事に気づいた女性たちは、「母親」という選択を選ばなくなりました。肝心の母親自体が減少したことにより、「母性の衰弱」が始まります。

 「母性の衰弱」は、社会が発展していく過程で必ず起こるものであり、これを止めることは不可能です。

 こういう状況になると一番困るのは、誰でしょうか? それは子供です。「母性の衰弱」によって、子どもたちは「母親」という選択肢を選ばなくなった女性たちに、置いていかれることを運命づけられてしまうからです。

女性たちから相手にされなくなった子どもたちは、父親がいないのをいいことに、母の元に戻ろうとしますが、社会がそれを阻んでしまう。だから自分と同じ性別か、似たような意見しか持たない身内、つまり延長としての自己からなるホモソーシャルな排外主義的コミュニティを作り上げることで、母子共生的ユートピアを求める欲求を解消しようとする。※

だから問題はやはり、母親ではなく、母性を求める子供にあるんですよね。

こういう問題を解決するために、「父性の復権」を論じる人が多数います。私も一時期そう考えましたが、マッチョイズムや家父長制を繰り返すだけですし、そもそも「父性の復権」が不可能であることに気づきました。

女性が妊娠した時、男性側には何が起こるでしょうか? 何も起こりません。兆しや予兆もありません。妻が妊娠したという事実を、子供ができたという事実だけを、目の前にポンッと投げつけられるだけです。

そこには肉体的な変化もなく、無論精神的変化も起こりえません。妊娠というものを経験できない男は、ただ取り残されるだけ。いきなり周囲から父親としての役割を求められ、彼らはその期待に答えるために頭の中を必死に駆けずり回って、「お父さん的なもの」を探し始めます。

「父性」は、「母性」のように発生するものではなく、エピゴーネン(模倣)的なものであり、模倣元であるモデルを失ってしまえば、いとも容易く“喪失”してしまうのです。つまり「父性」とは、「母性」のようにハッキリと存在するものではなく、あくまでも模倣によって成り立つ“虚構”でしかないんですよね。だからこそ村上龍は、「父性とは幻想である」と喝破したのです。

そして「父性」という錯覚を維持するために、彼らは情報を隠蔽しました。二十歳前後の若者の方が肉体的に勝っていることを、家庭に入らずとも幸せになれることを、そして自分より優れた男が存在することを、徹底的に隠蔽することで、子と母親の世界を狭め、そこで絶対者として君臨していました。

しかしアメリカの台頭やグローバリゼーションによって、彼らの杜撰な抑圧社会はあっけなく終りを迎えてしまいました。「父性」というものが、如何に脆弱で恥ずかしいものなのか、暴かれてしまった。

血と汗と涙を流して作り上げた「父性」という衣服をズタズタに引き裂かれ、男たちは皆裸にされてしまったのです。

父親を父親足らしめる子供という存在を産める母親がいなければ、父親は存在できないということ気づき、一家の大黒柱が父親ではなく自身にあることを確信にした女性たちは、もう恥ずかしい父親を必要としなくなりました。

今更ちゃぶ台広げて、頑固親父をやったところで、鼻で笑われるだけなんですよね。「父性の復権」なんて、第三次世界大戦のようなとんでもないことが起こらない限り無理です。

 

※馬鹿なフェミを擁護するつもりはないけれど、ホモソーシャルなコミュニティがここまで流行る理由はそれしかないのでは?

女性の不在によって男性として機能できないから、そういう集団の中に立てこもって、支配者として振る舞うことで、その鬱憤を晴らす。だから、外も内もグズグズな集団に依存するのではないか。別のとこへ行けば、「余所者」という弱い存在として扱われ、ウサを晴らせなくなってしまう。

 

どうしたら大人になれるの?

「父性の復権」が駄目なら、このコミュニティの問題はどうやったら解決するのか? はっきり言うと、このコミュニティをどうにかすることはできません。

彼らをどうにかするために外側から説得をしようとしても意味が無いんですよね。「感情の劣化」ではないですが、そこは子供でいていい世界なので、都合よく解釈されて、ナマの感情むき出しの暴言が返ってくるだけなんですよね。

じゃあ内側から告発するのはどうかと思うかもしれませんが、それも無駄です。延長線上の自分、つまり自分と似たような存在しかいない世界なので、内側の結束が強く、告発しても、庇い立てしたり、擁護したりしてしまうんですよね。

ひどい時だと、「なかなか人生上手くいってなくて……」のような、自分がいかに弱者であるのかみたいなことを聞かされ、「謝れ」って謝罪を要求されるんですよね。

それで鼻息荒くして、「俺が話し合いの場を設ける」って言って、首根っこ捕まえるのは一番ダメです。そういう“より強い力”を持ってきて、相手を啓蒙・教育しようとするのは、マッチョイズムの焼き直しでしかありません。

じゃあ成熟を諦めて、子供だけの世界にドップリ浸かっていればいいのかと言うと、それが一番まずいんですよね。この世界の中では他者でいられないので、他者を自分に合わせて捻じ曲げるか、自分が他者に合わせて捻じ曲がるかしかないんですよね。他者が他者でいられないどころか、下手したら自分ですらいられないんですよね。

 では、どうすればいいのか? とりあえずの応急処置として、私は「切断」という考えを提唱します。哲学者である千葉雅也が「切断」という語を使っていますが、ここでの意味合いは、「縁を切る」や「距離を置く」といった程度のものです。

 何故へその緒がすぐ切断されるのかと言うと、切断しないと何もできないからです。それと同じように、こういうコミュニティにいると、受け入れる能力をどんどん失っていき、何も出来なくなってしまう。そして土居健郎の「甘え」のような、「受け入れて欲しい」とか「愛されたい」みたいな、あっちのティーンエージャーがこじらせるものを、二十歳超えてもこじらせ続けなければならない。これでは何時までたっても、「幼年期の終わり」を迎えることはできません。

 こういうコミュニティを「切断」して、遊牧民のように定住することなく常に渡り歩き続けるしかないんじゃないのか、と思います。それこそ神話に出てくる英雄のような旅をずっと続けるしかないのではないのか。そういう行為を繰り返すことで、「父性の不在」を埋めていくしかないのではないか。

 しかしこれで「成熟の課題」が終わったわけではありません。何故なら、その先には「結婚」や「妊娠」といった罠が待っているからです。

「結婚」や「妊娠」が起こってしまえば、父親になるしかない。父親にならない方法もありますが、それは極めて難しいです。そして父親になってしまうと、選択を迫られてしまう。昔ながらの頑固親父のような暴君になるか、いてもいなくても変わらないような日陰者になるのか、決めなくてはならない。

 小児病的世界から抜け出しても、その先には「矮小な父」という役割だけです。母性を求める存在になるか、母性から否定される存在になるのか、そのどちらかしかない。これらの恐ろしいものを、ゴール(成熟)と捉えていいのか。

 子供でもなく、父親でもない、マージナル・マン(中間的なもの)としての青年で居続けることが正解なのか?

 複数のコミュニティを渡り歩き、色んな人とセックスして、本当にそれで社会の規範や忍耐、そしてコミュニケーション能力を獲得できるのか?

 「切断」や「逃亡」を繰り返して、それらを得ることが出来さえすれば、本当に成熟できるのか?

 元服すれば、家庭を持てば、儀式を経験すれば、父親を殺せば、大人になるための条件は過去多く存在していた。しかし社会が発展することで、その全てが消えていった。

大人になる方法を明確に失った我々は、どうすれば「成熟の課題」を終えることが出来るのか?

 自分がまだ子供なのか、それとも、もう大人になったのか、私はその答えを未だ見つけられずにいる。